(今日、社格は存しないが、日本の代表的名社として神社本庁の別表に掲げる神社とされている。)
『神明社之縁起』
社伝によれば、遠く越前国北庄三郷(現在の福井市中心部)は足羽御厨(あすわのみくりや)と呼ばれ、伊勢神宮に御戸帳(みとばり)を献上する神領でありました。
第六十代醍醐天皇の御代、北庄に明光長者という人があり、厚く天照大御神を崇敬し、御神徳を頂くことも少なくなかったため、当地に社殿を造営し、皇大神宮を勧請したい旨を朝廷に奏聞に及んだところ、天皇深く叡感なされて直ちに、「国家鎮護のために大神宮を勧請せしむべし」との勅命を下されました。かくして延長二年(924年)三月九日、右大弁藤原親正、神使久志本右衛門大夫広次等が、御分霊・神宝・幣帛等を奉戴して北庄に参着、暫く足羽神社御宝殿に御滞座の後、同年九月二十日、御社殿の竣功をまって御鎮座になられました。
以来御祭神にきわめて由緒の深い三月九日、九月二十日は春秋の大祭日として明治の改暦に至るまで連綿と受け継がれました。
松平春嶽公が自ら筆をとり奉納した絵馬
足羽御厨とも呼ばれた北庄には鎌倉時代には越前守護所が置かれていたとも云われ、越前における政治上の重要地点でありました。したがって北庄総鎮護として御鎮座相成った当社には平重盛公を始め、源頼朝、執権北条氏、新田氏、斯波氏、朝倉氏、柴田勝家、丹波長秀、堀氏、青木秀以、松平氏等歴代国主の崇敬厚く、社領寄進、社殿造営、社参奉幣の事など枚挙にいとまがありません。
斯波氏の重臣から越前守護になった朝倉氏は北庄を根拠地として政治的地位を高めましたが、初代広景は敬神の念厚く貞和三年(1347年)領内の諸社に先駆けて当社の規模を修復、六代家景は文安三年(1446年)に再興し、初代越前守護となった考景もまた深く当社を崇敬して国の安泰と民心の安定を祈願しており、一乗谷に移ってからも朝倉氏の守護神として尊崇され、代々参詣を怠らなかったと伝わります。
福井藩祖結城秀康公は入封後の慶長八年(1603年)神領二〇石を寄進し、二代忠直公も元和五年(1619年)に社領八〇石を加増、以来歴代藩主も就封後の社参奉幣・叙位任官の際の奉告は怠らず、社殿修復、判物を与え、国元で出産の時には安産祈願をし、誕生後には健やかな成長を祈り初宮詣を行い、当社を氏神として崇敬していました。社領百石は元和六年(1620年)には幕府によって安堵され、以来越前では平泉寺白山社と共に歴代将軍家によって安堵される御朱印地とされていました。
『御使番町より神明の森』
福井市立郷土歴史博物館蔵
北庄は柴田勝家公が入部して城を築き、城下町として一層市街地が進んだことにより、名実ともに越前における政治・経済の中心地となりました。勝家公は築城にあたり当社境内に70~80人の侍の屋敷割を行ったとの記録もあります。
慶長二年に入国した結城秀康公は北庄城を拡張するため、当社の門前町であった神明町を城北に移転させましたが、神域は動かさず城郭内に残しました。第三代藩主忠昌公は北庄の「北」は敗北に通じ不吉であるということで、福居(福井)と改称しました。以来当社は「福井惣社」(越前国名蹟考)と称されるようになりました。
寛延二年(1749年)の屋根葺替後の御遷座の時には「町内にも簾を下げ、提灯を出す。尤も祭の如き参詣あり。色々見せ物もこれ有り。賑々しき事」(国事蕞記)と記され、また「当御代より夏祭り執り行う。(中略)…由縁は国主(十四代斉承公)春三月江戸詰、五月に御帰国相成る。故に秋祭一度ばかり御在国に付き、夏祭始まる。国主は当国にて御生出に付き、当社は氏神なり」(社記)と見えるように、藩主をはじめ城下の人々が身分の上下を問わず、心から当社を崇敬し、その祭礼を待ち望んでいた様子がうかがえます。この伝統は維新後も引き継がれ、五月の祭礼は「神明祭り」と呼ばれて親しまれ、明治十八年からは大名行列も加わって、福井市民の心意気を示す祭として盛大に行われています。
稲荷神社 【御祭神】稲荷大神(宇迦之御魂神・佐田彦神・大宮能売神)
稲荷の名は、五穀成就の神として、秋に立派に稔った稲穂を肩に荷って神に捧げたところから起こっている。今日では商売繁盛の神として崇敬されているが、3神の御神徳を兼ね併せた、世の先駆者となって人心と調和し、穢悪を祓い清めるという深い信仰がその奥底にある。
恵比須神社 【御祭神】蛭児大神
恵比寿神は海の外から来られた守り神とか漁業の神と信じられたところから、釣竿をかつぎ抱くお姿で親しまれている。こうした海の神の信仰から海産物を交易するための市場、商家の守護神となられ、今日ではあらゆる商売繁盛の守り神として信仰されている。
古くは「西の宮大神宮」とも称され、10月20日には商家でゑびす講が行われ、社頭も賑わったものである。
袋羽神社 【御祭神】袋羽大神
古くは「正保2年(1645年)3月吉祥日 施主川澄角平興勝」の銘のある袋羽大権現碑として祀られていたが、天保・弘化の頃より庶民の信仰を得て諸願成就の奇瑞があり、社殿・鳥居・絵馬が寄進されて境内社としての姿をととのえるにいたった。「猫塚さん」の名で親しまれ、子供の夜泣き平癒に霊験あり、鰊(にしん)を供え、絵馬を掲げて子供の無事成長を祈願する人の参拝が絶えない。
聖徳太子の偉徳を敬慕する人々によって明治34年平岡山に建立されたが、昭和26年春に当神社に移築された。建築関係の人々が祖神と仰いで崇敬しているが、最近では総明な太子にあやからんとしてか入学試験をひかえた受験生の姿も見られるようになった。
この太子堂は創建当時の建築技術の粋を集めて造られたもので、現在は破損を防ぐため覆舎が設けられている。
神明神社西側より神馬及絵馬堂を望む(戦前)
表参道一の鳥居(戦前)
御鳳輦(戦前)
御神輿(戦前)
春山大名行列
春の祭礼 宝水上町奉納
春の祭礼 佐久良区奉納
春の祭礼 錦区奉納
春の祭礼 大和区奉納
春の祭礼 江戸区奉納
春の祭礼 境町奉納
春の祭礼 神輿
春の祭礼